アクセル・ワールド(ネタバレあり)

電撃文庫ゲーム小説大賞受賞作品。
ゲームという単語がいつの間にか抜け落ちているけれど、内容的にゲームっぽいのでつける。
爽快な加速感のある物語。
擬音が多すぎるきらいがあるが、多分この方がわかりやすいのであえて使っているのだろうと思う。
卑屈でまっすぐというなかなかわかりにくい特性(主人公の境遇の理由付け、および物語の展開上の必然性)を持つ主人公がいじめられっこの境遇から抜け出してすてきな彼女ができる物語。

ただ。
物語の構成上の必然として、ふみにじられた親友の思いだけが、胸にしこりとして残る。
ていうか、そこは相談するところなのか幼馴染みよ。
自分で考えて結論出せよ。他人に答えを求めるところじゃないだろ。
しかも結論を出した理由がそれかよ。
親友からすれば、何だろう、友達としても当然だけど、男としても情けないじゃないか。

判官びいきかもしれないが、体型的には主人公にものすごいシンパシーを感じるものの、心情的には親友が不憫でならない。

黒雪姫かわいかった。

日本改造計画

もう十年以上前に書かれた本。
小沢一郎という政治家は、基本的に感情やメンツよりも利が先に立つ人だと思う。
本の中で描かれている世界はドライで簡潔だ。
フリードマンほど楽天的ではないけれど、資本主義と自由を読んだときの感覚に似ている。
しかし、それは時として感情やメンツを優先したい人の神経を逆撫でする。
近頃は感情を愛国心、メンツを国体と言い換えるのが流行っているようだけれど。
もちろんそれらが重要である事は疑いない。
疑いないが、だからといって、他の全ての選択肢を放棄する理由になるかと言われれば、そうとも言えないだろう。

根絶が最後の目標である事は間違いない。
しかし、まずは何をおいても、被害者の方々に帰ってきていただきたい。
それが実現しなければ、今後この問題は風化する一方だろう。
日本の、とか、日本人として、とか、確かにそれは尊い事だと思う。
けれど、それよりも、娘が、息子が、孫が。
そっち側の方が、少なくとも自分にとっては、重い。

村上春樹、エルサレムにて。

So I have come to Jerusalem. I have a come as a novelist, that is - a spinner of lies.
だからエルサレムにやってきた。小説家として、嘘の紡ぎ手として。
Novelists aren't the only ones who tell lies - politicians do (sorry, Mr. President) - and diplomats, too. But something distinguishes the novelists from the others. We aren't prosecuted for our lies: we are praised. And the bigger the lie, the more praise we get.
小説家だけが嘘つきなわけじゃない、大統領だってそうだ(申し訳ございません、閣下)、外交官だってそうだ。けれど、小説家には他の方々とは違うところがある。嘘だと責め立てられる事はなく、むしろ誉められるのだ。嘘が大がかりであれば、より多くの賞賛を得られる。
The difference between our lies and their lies is that our lies help bring out the truth. It's hard to grasp the truth in its entirety - so we transfer it to the fictional realm. But first, we have to clarify where the truth lies within ourselves.
僕らの嘘は、ほんとうを明らかにする点で彼らのそれと異なる。ほんとうを損なうことなく捕まえるのは難しい。だから、小説の舞台に移す。けれど、それより前にほんとうがどこに潜んでいるのかを明らかにしておかなければならない。
Today, I will tell the truth. There are only a few days a year when I do not engage in telling lies. Today is one of them.
今日、僕はほんとうを話す。嘘をからめないで話す日なんて年に何日も無いけれど、今日はその日だ。
When I was asked to accept this award, I was warned from coming here because of the fighting in Gaza. I asked myself: Is visiting Israel the proper thing to do? Will I be supporting one side?
授賞式の招待を受けた時、紛争のまっただ中である旨の警告は受けていた。自分がここを訪れるのは正しいのか、それはどちらかの側に立つ事を意味しているのではないかとも考えた。
I gave it some thought. And I decided to come. Like most novelists, I like to do exactly the opposite of what I'm told. It's in my nature as a novelist. Novelists can't trust anything they haven't seen with their own eyes or touched with their own hands. So I chose to see. I chose to speak here rather than say nothing.
So here is what I have come to say.
誰かが考えたように、僕もここに来ることを決めた。多くの小説家たちのように、自らが評されるのとは真逆の事を行った。これは小説家として自然な事だ。小説家は自ら見て触れたものしか信じない。だから見ることを選んだ。言わぬよりも言うことを選んだ。それがここに来た理由だ。
If there is a hard, high wall and an egg that breaks against it, no matter how right the wall or how wrong the egg, I will stand on the side of the egg.
たとえ硬く高くそびえ立つ壁があって、卵がぶつかって割れたとしても、どれだけ壁が正しく卵が間違っていようとも、僕は卵の側に立つだろう。
Why? Because each of us is an egg, a unique soul enclosed in a fragile egg. Each of us is confronting a high wall. The high wall is the system which forces us to do the things we would not ordinarily see fit to do as individuals.
なぜか。僕らも卵だからだ。無二の魂を抱いたこわれやすい卵だからだ。僕らはみんな壁に突き当たっている。高い壁はどう見ても僕らにそぐわない事をさせようとする。
I have only one purpose in writing novels, that is to draw out the unique divinity of the individual. To gratify uniqueness. To keep the system from tangling us. So - I write stories of life, love. Make people laugh and cry.
僕が小説を書くのは、僕らの無二の魂を描き出したいからだ。他にない事を誇りたいのだ。壁が僕らをからめ取らないように。だから僕らは人々の生を描く、愛を描く。人々を笑わせたり泣かせたりするために。
We are all human beings, individuals, fragile eggs. We have no hope against the wall: it's too high, too dark, too cold. To fight the wall, we must join our souls together for warmth, strength. We must not let the system control us - create who we are. It is we who created the system.
僕らはみんなこわれやすい卵なのだ。壁に望みは抱かない。高く、暗く、冷たい壁に。壁に戦いを挑むなら、僕らは互いの温もりを支えにするために集わなければならない。壁に僕らを追い立てさせてはいけない。僕らが壁を作ったのだから。
I am grateful to you, Israelis, for reading my books. I hope we are sharing something meaningful. You are the biggest reason why I am here.
僕の本を読んでくれた人々に感謝を。何かの意味を分かち合えたらと願う。僕がここにいるのは、あなたたちのおかげだ。

経済系のブログを読んでいると

いつも不満に思う。
偉そうにふんぞり返って、日本の正社員は賃下げをするべきとか、雇用の流動性を高めるべきだとか、これから本当のマイナス成長が始まるだのぬかしてる人たち。
実際に、自分自身の身にもそれが降りかかってくるという危機感や恐怖心は無いのか?
賃下げをするっていうのは、自分の給料が減らされるって事だ。ミスしたわけでも降格人事食らったわけでもないのにいきなり給料が下げられるのは、勤め人からしたら悪夢だろう。
雇用の流動性を高めるっていうのは、自分がクビになって路頭に迷う可能性を増やすって事だ。クビになった人間を雇い入れる会社なんて、どんだけ流動性を高めようがぽんぽん出てくるわけがないじゃないか。
怖くないのか? 嫌じゃないのか?
自分の給料が減らされても、たとえクビにされたとしても、日本全体の経済のためなら、喜んで身を捧げようとアンタらが言えるなら、言うだけじゃなく実際にそうできるなら、何も言わない。

だけど、そうじゃないだろ?

暴力

誰かに殴られて、その時殴り返せなかった人間は、いつか、殴りたくない誰かを殴る事になる。

子供は可愛いと思う。
いいな、と思う女の人が現れることもある。
でも、その数歩先に、泣き叫ぶ小さな子供の髪を引きちぎって殴りつけている、未来の自分の様が思い浮かぶ。
殴られた頬の痛みと、誰かを殴っている拳の感触しか、生の感覚が無いからだろう。

強くなれと人は言う。
男は女を守るものだと言う。
子供を守るものだと言う。

実感が湧かない。
本当に、そうなんだろうか。

( ニ コ )

タカハシマコさんの漫画。
自分をロボットだと言う不思議な少女(ニコ)に出会った様々な人々の物語。
繊細な絵柄と、毒々しい味付けをされたキャラクターの齟齬と違和感。
現実感のあるものではない、ここまで極端に単純化される人間がさほどいるわけでもあるまい、だけれども、目が離せない、軽々しく笑えない物語。

タカハシマコさんの描く世界には、いつも違和感と反発を抱く。
この世界のように、人間は自分の事にも他人の事にも一生懸命にもなれないし、ヤケにもなれない。
もっとニュートラルの位置で、茫洋と他の人間を裏切り、自分も裏切り、その痛みに責任は取らず、誰に責任も求めず、生きている。
そんな生を、この作品は認めてくれない。

自信が無ければ、夢が無ければ、猫を拾わずに通り過ぎれば、好きな人間に好きと言わなければ、対立すべき人間に対立しなければ、出世しなければ、子を成さねば、人は生きてはいけないのか。

生きていける。
冷笑でも自嘲でも、自虐でも何とでも言え。
生きない人間よりは、億倍もマシだ。

綺麗な生を、充実した生を、後ろ暗くない生を、そんなものを求める心が、自分の崩壊に繋がるなど、本末転倒もいいところだろう。
ただ、生を裏切らなければ。
人は生きていける。

隷属への道

まともに経済学も社会学も学んだことのない門外漢が今さら、だが、最近になってハイエクの著書を読み始めた。
隅々まで理解するにはやはり基礎学力が足りなさすぎるが、それでも書かれている言葉は自分にとっては十分に刺激的で、今現在心に抱えているなぜ、どうして、という思いが少しやわらいだような気がする。抽象的な感想しか浮かばない時点で、理解なんてしてないのがバレバレだけども。

少し前に読んだフリードマンの資本主義と自由も面白かった。経済なんて、とまゆをひそめる前に、もっと若い時期から読んでおけばよかったなぁと、今さらながら残念に思う。