特攻隊に捧ぐ

戦争とは何かというのをよく考える。
礼賛する気は毛頭無いが、現実にイノチガケで戦っている人々をことさらに貶めようとも思えない。

戦争をしたいと思うのは、どこの誰さんなんだろう。
実際に銃を持ち敵を撃つのは、どこの誰さんなんだろう。

この、どこの誰さんが、せめてみんな同一であってくれるなら、救いはあるのだろうけれど。
だって、少なくとも、その人たちは、ノセられたわけでも何でもなく、本気で『ソイツを殺したい』と思って銃を撃つんだから。
殺すのに失敗しても、成功しても、成功したあとでソイツの仲間や遺族やにうらまれ復讐されるような羽目になったとしても、その原因は自らが本気で殺したいと思った殺意なのだと、納得はいくだろうから。

鬼畜米英、ジャップ、イエロー・モンキー、ライミー、ヤンキー、etc
そんな他人が貼り付けたレッテルで、人は人を殺せてしまう。
だけど、他人まかせのレッテルだから、自分たちが傷つけられ殺されることには理不尽を感じてしまう。
納得なんか、できるわけがない。

否応なしの強制、と坂口安吾は言った。
現実に戦時になってしまえば、こんなはすっぱな考え方など、木っ端に砕けて散ってしまうのだろう。
そして、存外人間は、強制されるのが好きなものらしい。
生き甲斐だの、使命感だの、名を残す、だのと。

サヨクの方々が怖がる軍靴の音なんて全然聞こえてこなくて拍子抜けだといつかのゴー宣で書いていた。
自分の実感としては、もう相当に音はでっかくなってきていると思う。
わかりやすく暗いイメージではなく、ただ何となく、気に入らない、フォークについたソースの付き方が気に入らない、ナプキンの折れ目が汚い、それぐらいの感覚。
戦争を許容する感覚って、こんなものなのかもしれない。
そして追い落とされて、どうにもならなくなって、口だけは英雄志望でかっこいいことだけ言って、死んでいくのだろう。